いつの頃からか知っていた、平野紗季子さんの著書、「生まれたときからアルデンテ」を読みました。昨年の春に出版されたみたいだけど、平野さん自体はなんとなく知ってたけど、本の存在は知らなくて、やっと最近手に取ったこの本。
いやー、なんか、嬉しくなりましたよ、私は。
おこがましくも言わせてもらえば、世の中にこういう人がいることを。
あんまり「今の若い人は〜」とか言うのは好きじゃないけど(てか、私だってまだ若造だし)、 でも、食文化は時代によって変わって行くし、食べものはモノであってモノでない、というか。食べちゃうと消えてなくなっちゃうモノだから、割とその時代の人はその時代の食文化の影響を強く受けると思っていて。
そんな中、溢れんばかりの情報の中育った私たち平成っ子は(私は昭和生まれだけど、育ったのはほとんど平成。)、食べ物の情報を食べる前から得ていることが多いし、平野さんに言わせれば、“実際に食事と対峙するときには答え合わせの追体験でしかないなんて、そんな不感症グルメがあふれている気がする。”(「生まれたときからアルデンテ」p.90 )のだそうな。
なるほど、不感症グルメとはよく言ったもの。
そんな時代に生きていて、こんな人が存在すること自体がもはや嬉しい。
そしてこの本はそんな不感症グルメの代わりにグルメ体験をした気にさせてくれる、そこらへんに溢れるグルメ本とは一線を画し、平野さんが食べ物に対して真摯に向き合っているからこその独自の視点で得られた発見を書いていて、もっと食べ物に対して真摯に向き合おう、という改めての気づきをくれました。
本自体は写真と書き下ろしの文章を交えたエッセイで、あっという間に読めてしまうけど、あらためて振り返ってみると、書き留めたくなることも多くて、実はもう一度読み返しています。
ちょっとだけ、気に入ったフレーズをいくつか。
いやー、久々に刺激を受けた文章だった。
Vogueの編集長アナ・ウィンターと雑誌編集に密着したドキュメンタリー「ファッションが教えてくれること」に
ってあるけど、 私、まだまだ何にも見えてない。
もっと目をかっ穿じらなければ。
耳かっ穿じらなければ。
鼻、敏感にしなければ。
常に頭と心を開いておかなければ。
平野紗季子流に言えば、私もまだまだ不感症です。
そして、彼女の表現力にも脱帽。
やっぱり、インプットが違うとアウトプットも変わってくるんですね。
これは、東浩紀さんの「弱いつながり〜検索ワードを探す旅〜」でも述べられていますが、それを実践的に感じた「生まれた時からアルデンテ」。
彼女の表現力の豊かさはインプットの視点からすでにユニークだからということに尽きるのかもしれません。
でも、どれも「言われてみると、確かに!」みたいな共感できることばかり。いかに自分が目の前で起こっていることに気にも留めずに生きてきたのか。
だって、食に対しての情熱がほとばしる序章には圧倒されたし、ニュー新橋ビルのジュースバー「ベジタリアン」は今すぐにも行きたくなったし、【人の家の麦茶】というタイトルのコラムはすぐに近所の幼なじみのお家の麦茶の味が思い出された(親同士もすごく仲良くしていて、うちと同じ麦茶を使っていたけど、飲むとなんかうちのと違ってて、それを感じた瞬間、自分は他所のうちの子なんだと思ってちょっと寂しくなった。)。
と、いつの間にかかなり熱く長々と語ってしまったけど、結局のところ、食の情報を発信している自分としては、「読んだ人が行きたくなる、飲みたくなる、食べたくなる文章」を発信したら勝ち、と思っていて、その点、平野さんには完敗です。
この本、ぜひ読んでほしい。ぜひに。
あとこれも面白いです。詳しくはそのうち。
いやー、なんか、嬉しくなりましたよ、私は。
おこがましくも言わせてもらえば、世の中にこういう人がいることを。
あんまり「今の若い人は〜」とか言うのは好きじゃないけど(てか、私だってまだ若造だし)、 でも、食文化は時代によって変わって行くし、食べものはモノであってモノでない、というか。食べちゃうと消えてなくなっちゃうモノだから、割とその時代の人はその時代の食文化の影響を強く受けると思っていて。
そんな中、溢れんばかりの情報の中育った私たち平成っ子は(私は昭和生まれだけど、育ったのはほとんど平成。)、食べ物の情報を食べる前から得ていることが多いし、平野さんに言わせれば、“実際に食事と対峙するときには答え合わせの追体験でしかないなんて、そんな不感症グルメがあふれている気がする。”(「生まれたときからアルデンテ」p.90 )のだそうな。
なるほど、不感症グルメとはよく言ったもの。
そんな時代に生きていて、こんな人が存在すること自体がもはや嬉しい。
そしてこの本はそんな不感症グルメの代わりにグルメ体験をした気にさせてくれる、そこらへんに溢れるグルメ本とは一線を画し、平野さんが食べ物に対して真摯に向き合っているからこその独自の視点で得られた発見を書いていて、もっと食べ物に対して真摯に向き合おう、という改めての気づきをくれました。
本自体は写真と書き下ろしの文章を交えたエッセイで、あっという間に読めてしまうけど、あらためて振り返ってみると、書き留めたくなることも多くて、実はもう一度読み返しています。
ちょっとだけ、気に入ったフレーズをいくつか。
===========
【序章】
私の食卓には生活がない。
生活なんていらない。
食は日常に取り込まれた瞬間、
平然と熱気を失ってしまうから。
スロウな生活の湿度は、
食の鋭い輝きを殺してしまうんだ。
〜(中略)〜
きっと食べ物は想像もつかぬようないびつな多角形をしていて、それぞれの先端が私を突き刺すたびに食は日常を超えていく。
【共食孤食問題】
「人と一緒に食べれば何でもおいしい」という人がいるけどそれは嘘だと思う。それはお人好しの神話であって真実じゃない。だって人と一緒に食べてもまずいものはあるし、人がいなくたって美味しいものもあるでしょう。
【金券ショップの先の、ネクタイ屋の奥野、フルーツの秘境】(ベジタリアン/ニュー新橋ビール)
ニュー◯◯はだいたいニューじゃない。
〜中略〜
グッドモーニングが自分の言葉になる。
【人の家の麦茶】
人の家の麦茶は、まずいとか、そういうことではなく、〜中略〜なんか不気味。
どうも生々しい。他人の、極めて個人的な部分がなみなみと自分の喉を通って入り込んでくるのが。
〜中略〜
紅茶にはなくて麦茶にはある、協会がくずれてしまうあやうさの味。
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いやー、久々に刺激を受けた文章だった。
Vogueの編集長アナ・ウィンターと雑誌編集に密着したドキュメンタリー「ファッションが教えてくれること」に
いつも目を開けていろ移動の時に眠るな目に映るあらゆるものがインスピレーションを与えてくれるー「ファッションが教えてくれること」
ってあるけど、 私、まだまだ何にも見えてない。
もっと目をかっ穿じらなければ。
耳かっ穿じらなければ。
鼻、敏感にしなければ。
常に頭と心を開いておかなければ。
平野紗季子流に言えば、私もまだまだ不感症です。
そして、彼女の表現力にも脱帽。
やっぱり、インプットが違うとアウトプットも変わってくるんですね。
これは、東浩紀さんの「弱いつながり〜検索ワードを探す旅〜」でも述べられていますが、それを実践的に感じた「生まれた時からアルデンテ」。
彼女の表現力の豊かさはインプットの視点からすでにユニークだからということに尽きるのかもしれません。
でも、どれも「言われてみると、確かに!」みたいな共感できることばかり。いかに自分が目の前で起こっていることに気にも留めずに生きてきたのか。
だって、食に対しての情熱がほとばしる序章には圧倒されたし、ニュー新橋ビルのジュースバー「ベジタリアン」は今すぐにも行きたくなったし、【人の家の麦茶】というタイトルのコラムはすぐに近所の幼なじみのお家の麦茶の味が思い出された(親同士もすごく仲良くしていて、うちと同じ麦茶を使っていたけど、飲むとなんかうちのと違ってて、それを感じた瞬間、自分は他所のうちの子なんだと思ってちょっと寂しくなった。)。
と、いつの間にかかなり熱く長々と語ってしまったけど、結局のところ、食の情報を発信している自分としては、「読んだ人が行きたくなる、飲みたくなる、食べたくなる文章」を発信したら勝ち、と思っていて、その点、平野さんには完敗です。
この本、ぜひ読んでほしい。ぜひに。
あとこれも面白いです。詳しくはそのうち。
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